コゼリスク (Kozel’sk)
コゼリスクは州都カルーガからは南西へ70kmの場所にある. オカ川の左支流であるジズドラ川の左岸に位置している. コゼリスク地区の中心地でもある.
コゼリスクは、かつてスラブ系のヴャチチ族が集落を作り住んでいた場所に建てられている. 1146年の記録にはコズレスク、1154年の記録にはコゼレスクの名で登場している. 強大なチェルニゴフ公国の一部となっていたコゼリスクは1238年、ルーシに侵入したモンゴル帝国のバトゥ率いる遠征軍に攻められ()、7週間ものあいだ持ちこたえモンゴル軍に大きな損害を与えた. バトゥに「忌まわしい町」と言わしめたコゼリスクは、最終的には陥落し破壊された.
チェルニゴフ公国解体後、オカ川上流公国群の一公国(コゼリスク公国)の中心となっていたコゼリスクは、14世紀後半、および1445年から1494年までの間、リトアニア大公国の支配を受けるが、1494年にモスクワ大公国の一部となった. 16世紀から17世紀にはコゼリスクの町は最盛期を迎え、ロシア中央部からウクライナを結ぶ街道上の町として19世紀まで重要な位置にあった. 1776年には市の地位を得て、郡の中心地となった.
第二次世界大戦(独ソ戦)では、1941年10月8日にドイツ国防軍により占領されたが、モスクワ付近からカルーガ付近まで前線を押し返した赤軍西部戦線により1941年12月28日に解放された. 戦後、戦略ロケット軍の基地がコゼリスク地区に置かれ、住民の多くはミサイル関係の任務に従事する軍人とその家族となっていた.